同居人が心臓病になりました。+義母が末期がんという事が昨日わかった。

同居人が2016・秋に心臓の病気と診断されました。そして義母が2017・3月にいきなり末期がんとなったヨメの記憶のための記録。

ICU3日目、言う事がヘン・・・?

7日の夜にICUに入ったから一応3日目?

面会時間の3時前には、他のご家族さんたちもICUの前で待機。

インターフォンで中の看護士さんに許可を取ってから部屋に入るんだけど、

3時きっかりにインターフォン取り合いになりそうだったので、ちょっと遠慮して

少し離れておりました。

まあすぐに入れましたので、同居人のベッドに近づくと、「夜うるさくて眠れない、な機械がピーピーうるさいし」と愚痴からはじまりほとんど文句~まあしゃーない

少しだけ話して「疲れちゃうからまたね!」とさっさと退出。

夜の面会時間7時まで、さて何して時間つぶそうかな~と考えるツマでした。

 

術後2日目、ICUで面会する。

ICUの面会時間は15:00~16:00と、19:00~20:00なので、すばらしいホテルをゆっくり11時にチェックアウトしてムスメの靴を買いに。(昨日の雨で靴がボロボロになってしまったので)

靴を見るにも私のスーツケースが邪魔なので、今日から宿泊するゲストハウスの荷物を預けに行った。靴はそこの近くのGAPで安いのをゲット。しかし、履き替えてみたらかかとがポコポコ脱げてしまうので、結局今までのボロ靴で過ごすことに。

近くにお城があるので、時間つぶしに観光しようということになり、ひろーい公演を歩いて天守閣に向かう途中、行きかう観光客はアジア系の方々方々方々たまに欧米の方、またアジア系の皆さん、という感じで話す言葉が外国語しか聞こえないぜぇ!という国際色豊かな場所でした。

お昼は何を食べたのかなー

病院に向かい、時間になったのでICUインターフォンで中の看護士さんに出てもらい、面会者記録を書いて手指の消毒、マスクをして中へ。

同居人は眠っていたみたいだったけど、目を覚まして「おー」とひとこと。ムスメに会えて嬉しそうだった。「遠いのに来てもらって悪かったね。」なんて言ってた。

末っ子も昨日来てたんだよ、と伝えるとさらに嬉しそう。子どもたち大好きだもんねぇ。あんまり長く話してもいけないし、まあ目が覚めてよかったねとかいって部屋をでました。

ムスメは飛行機の時間があるので少し控室で話して、私も夜の面会はしなくていいか、と思ってたんだけど、ムスメに行ってあげなよ~と言われたのでムスメを駅まで送って仕方なくまた時間つぶし・・・

そして夜、もう1度面会

いままで家族は誰も入ったことなかったし、親戚のお見舞いとかでもICUに入ったことはなくて、初ICUなんだけど、結構広くてベッドは8台くらい?あるのか、同居人のベッドは入口に一番近いところなので奥までは見えないけどずらっと並んでる感じ。反対側に医師や看護士さんの机や医療用の機器やらなんやらがあって、話し声やあちこちに忙しく動く様子、点滴や心電図の機械のピッピ、ピーとかの音がひっきりなしに聞こえるし、管はいっぱいつながっていて動けないし、窓はないから時間もわからない・・・

ココにずっといるのは嫌だなーと絶対誰でも思うだろう。ワタシも長居はしたくないし、同居人も早く出て一般病棟に移れたらいいな、と思っていた。

この日から私はゲストハウス放浪が始まりました。

今日は前にも泊まったことのあるMZさんに一泊して、あすあさっては別のところに2泊。そのあとはまだ決まっていません~。

手術当日 その②

ムスメと末っ子が来ることになっていましたが、2人ともまだまだ来ないのでヒマー。

家族控室と言っても、10個ぐらいのベンチをL字型に並べてちょっと囲っただけで、ドアもなく、テレビはあったけどついてないしリモコンもなく。なぜか端っこに洗面台がある開放的なスペースでした。

そこにワタシ以外に2家族がいて、1家族は若いママと赤ちゃん、姉妹らしき2人とお母さん、もう1家族は夫婦2組と小学生の女の子にあとからおっちゃんやおばちゃんが駆けつけるという感じで緊張した空気が流れておりました。

ムスメが空港に着いたというラインを見たりしてたら、おっちゃんが駆けつけた方の家族が険悪な雰囲気になってきて。おっちゃんが「考えたくないかもしれんが、もう寿命やと思うしかないやろ。今までちょこちょこ悪うなっててこうなったんや。」なんていうもんだから、年が上の方の夫婦の奥さんが明らかに不満げで。いや~~いたたまれない。ので部屋を出て外来のベンチに避難してました。

そのうちに、ムスメが大量のお昼を買って到着。

もう一家族はいなくなっていたので、二人で爆食い。ムスメよ、来てくれてありがとう。

だらだらしながらまだまだだねーと末っ子まだ来ないねーととりとめもなく話し・・・

16時過ぎごろにやっと末っ子到着、姉弟は久々の再会でアニメの話などを楽しげにしているのを見て母は癒されたよ・・・

やっと17:30ぐらいに、胸を閉じる段階になったので先生から説明があるとのこと

手術を終えられた先生は、とてもゲッソリして見えました。お話を聞くと、3枚の弁のうち、下に落ち込んでいた弁をグググと引き上げて、すき間のないようにしたが、どうしても弁の端っこが硬くなっていて、完全には漏れはふさげなかったと。でもとても少量なので問題ないそうです。

開胸ではなく、脇から切るミックス法でできたとのことで、術後の回復も早いし、リハビリもどんどんやりますよと。

今から術後の処置をして、ICUには19:30ごろ入れると思いま、麻酔は明日の朝まで覚めないですが、お顔は見れますのでということでした。

ただただお礼を言って、頭を下げましたねー。

そしてその後ICUのムスメと末っ子も一緒に入って、眠ったままの同居人に会って病院を出ました。この日はムスメが私の誕生日祝いにと、高級ホテル!?を取ってくれていて、そこに行く途中のファッションビルのグルメフロアー(そう書いてあった)で3人で串焼きを食べました。なんと1時間も並んだの。いつもそんなことしないのに。

「このメンバーでご飯ってめずらしいよねぇ」というムスメにビミョーな表情の末っ子。同居人には悪いけど、母はとても楽しかった。

そのあと末っ子とわかれ、ムスメと行ったホテルはもー、すごくすんばらしくて、滞在時間が短いのが悔やまれました。ムスメあっという間に寝落ちしてました。

ムスメも末っ子も来てくれたし、久しぶりに3人でご飯も食べられたし、無事手術が終わって良かった。

としか思っていなかったこの日でした・・・

 

 

手術当日 その①

いよいよ手術の日がやってきました。

朝、麻酔科の先生の説明があるとのことで、早起きして7:20にアパートを出発。

末っ子のアパートの最寄り駅は、各駅停車しか止まらないので途中で乗り換えたほうがいいのかなーと思いながらもタイミングを逃していたら駅にずっと止まって何本も早い電車に追い抜かれ、病院までまたものすごい時間がかかってしまった~。

やっと病室に着いて、麻酔科の先生の説明も聞いて、看護士さんたちも着々と準備を進めてくださっておケケの処理(看護士さんがこう言ってました)もしてベッドをコロコロしてくださった。そうしたら、麻酔科の先生が戻ってきて、「緊急のオペが入ったので、開始時間が変更になりますー」と。

ワタシ「なあんだ~結局間に合ったからよかったんだー」

同居人「えーーーやだなぁ、早くやってほしいのに・・・」

まあそういうこともあるわな。

開始は10:30になりまして、時間になったので点滴のガラガラを押しながら歩いて手術室へ向かいました。

ドラマでよく見る、ストレッチャーに乗せられて、手術室の前で涙しながら手を握り、「いってらっしゃい。頑張ってね。」なんて全くなく、手術室も見えないところで

「じゃねー。また後でー。よろしくお願いします。」と付き添ってくれていた看護士さんに挨拶して、手を振りましたよ。

ムスメはまだまだ来ないので、1人ぽつーんと家族控室に・・・と思いきや、控室には他の家族の方がたくさんいて、一つだけ空いていた椅子にちんまり座ったのでした。

長いなあ、これから8時間・・・と思いながら・・・

手術前日、ツマ現地入り

pm7時からセンセイの説明があるということで、14時の飛行機で現地入りしたさー。(なぜか突然沖縄風)

しばらく家に誰もいない状態になるということで、戸締り、用心、火の用心に細心の注意を払い、出る直前まで家中のコンセントを抜き、いつものようにバタバタの出発。

飛行機は予定通りにびゅーんと着いて、空港で定番の豚まんを買い、電車に乗って病院方面へ。7時まではまだ時間があったので、途中で寄り道して、最寄り駅には余裕をもって到着・・・したのですが・・・

病院からもらった詳しい地図を見ながら、駅の『東口』に出て、商店街をずーっとまっすぐ。商店街がなくなって、普通の道に出て大きな通りを渡って、うーん?どっちだろう・・・どうにもわからなかったので、自転車に乗った奥さまに

「すみませ~ん。〇〇病院は・・・」と言いかけたら

奥さまは顔を曇らせ「あぁー。そこ全く反対方向ですよー。駅のあっち側なんですよねぇ。」と。え・・・?

そーなんです、ワタシったらなんと『東口』と思って出た改札口は『西口』だったんですね。「ここからだとだいぶありますよー。」と励まされ?お礼もそこそこに急いで逆戻り。正しい東口についたものの、また方向がわからず、やっとのことで7時ぎりぎりに病院にたどりつきました。

同居人は「遅かったじゃん、麻酔科の先生の説明もあったのに~」とむくれ顔。

そんなこと聞いてねぇーし。

まあ7時に間に合ったからよかったじゃん、とセンセイの説明を聞きに行きました。

 

手術は、とても大変な、そして胸をあけてみないと弁形成できるかどうか最終的判断はできないと。でもたぶんできるでしょうと仰っていたけど。

明日は朝9時半手術室に入り、準備から処置が終わって出てくるまで8時間かかるとのこと。心臓を止めている時間は3時間、呼吸も止まるので口から管を入れますなどなどのお話を聞いていた同居人、コワいなぁーと息を飲んでおった。

お話終わって、病室に戻り、じゃー明日~と末っ子のアパートに向かいましたよ。

末っ子のことは・・・まあいいか。

座布団3枚並べて、その上に寝袋敷いて寝がえりすると段ボールとプラスチックごみがカサカサする部屋で寝ましたよー。

 

同居人、入院しました。

 

5/30(火)朝早いジェットスターでびゅーんと飛んでいった(らしい)

入院の3日前くらいから、夕飯に食べたいものを作っていたけど、入院前日は『トンカツ』でした

なんか間違って薄い肉を買ってしまったので2枚でチーズ挟みにしたけどちょっとビミョーだったなー

まあ仕方ない。( ̄∇ ̄;)ハッハッハ

同居人は旅行とかになるといつもやたらと荷物が多くておまけにパッキングがダメダメなのでダメだしした上にだいぶ手伝って荷物を減らしたのに、スーツケースとボストンバッグとリュックというナニそんなに持って行くの?状態

病室にそんなに置くとこないと思うんだけど…

一応、朝は起きてお見送りしたけど玄関で早くも難儀しておりました

着いたら早々にラインきたし

お疲れ~

 

 

 

義母が亡くなってからのこと

あの日から、もう2ヶ月が経とうとしています。

告別式は火葬場が混んでいて、1週間後の3/12になりました。

私はずっと、義母が亡くなったときのことを考えていて、あの時血圧を測ってもらってたら、とか前病院でもう昏睡状態になっていたんじゃないか、とか移送中におかしいと思わないでいたこと、お義母さんの生きてるとき最後に一緒にいたのがなぜ自分だったのか、とか考えれば考えるほどどうしようもないことばかりが頭を巡っていました。

同居人のショックは私の理解を越えるほどで、取り乱しはしなかったけれど、私から見たら引くようなことが多く、それもあってお別れの時にも涙は出なかったんです…

というか、葬儀の前後から義母の写真とか見れなくなってしまった。

後飾りをうちにするという話も、凍り付いていたら実家にすることになったので、心底ほっとしました。

告別式の日に、納骨までしてしまったので、親戚一同お墓まで行ったのですが、写真好きの伯父がお墓の中まで写真を撮っていて、同居人も撮っていたのにはちょっと‥

そのあと最後に集合写真というので、嫌すぎて後ろの方で下を向いていました。

それから、実家の片づけに週末ごとに同居人が通って、いろいろなモノを持って帰ってくる。それが耐えられなくて、でもやめてと言えないし、苦しい毎日が続き、4月の末には耐えられなくて西の保養先に脱出しました。

そしてGWにしまなみ海道に旅行に来るという短大時代の友人と一緒に島旅をして。

いい気分転換になりました。

日にちが経って49日を迎えたころには私もだいぶ落ち着いてきたみたいで、義母のモノに嫌悪感を抱くことも薄らいできたようです。

だけどいまだに亡くなったときのこととかをふとした時に思い出してしまう。

脳裏に焼き付くという文字通りなことになってしまっているのかなー。

まだ写真見ると息が詰まるような感じになってしまいます。時間がたてば、そのうちに思いを語れるようになれるのかな・・・